2009年6月28日日曜日


減量挑戦のこのごろ

 それから5年ほどは、検査値に問題はないものの肝臓付近の重い感じが続いていたので自重して飲酒は全くしなかった。肝炎を自分が克服出来た実感が無く、不安でもあったからか。

  現在は普通に飲酒もし、最近は度を超して医者から「脂肪肝ぎみ」との警告を受け、減量に挑戦中の日々。

2009年5月14日木曜日


 医師、「こういう事はあるにはある」 

当時、1~2ヵ月毎に肝機能検査を受けていたが、その日から約1月後の検査結果でHb-s 抗原がー、抗体が+になっていた。

 担当医師は、「こういう事例も、あるにはありますが、それにしても年齢的には早いほうですね。」と説明し、「検査の誤差ということもあり得ますから念のためもう一度検査を。」と言った。

 翌週出た結果も同じだった。さらに念のためにと、翌年とその翌年に同じ検査を受けたが、結果は同じだった。 

B型肝炎ウィルスが完全に消滅したのだ。                           ( 診断書コピー 部分-参照)

2009年5月12日火曜日


身体が温まって来た

 視界を遮る濃霧の中で、方角だけを頼りにひたすら舟を漕ぐように、「い---ち」「にーーーい」とゆっくりと呼吸を続けて行くうちに、1時間以上は経っただろうか、
少しずつ身体が温まって来た。

そのうち、手先の感覚も感じ取れて来て、動かせるまでに成った。「数え呼吸」を初めて2時間ほどだったろうか、枕元の時計をみると7時少し前だった。 

起き上がれた。しかしまだ食欲はない。ちょうど「かげろう」のような、透明でかすかな新しい自分が、水を飲み、果物程度を軽く口にしだした。

 「死ななかった。」と思った。そのことの本当の意味はこれから分かるのだが。

まもなくすると、身体全体に深く重い疲労感が、しかし心地よく押し寄せて来た。全身が温まった自分は今度は安心して眠りに身をまかせた。

  「死んだように、泥のように眠る」とは此のことか、目が覚めたら夕方だった。

2009年5月10日日曜日


『かぞえ呼吸』

ところが、沈んでゆく自分の中で「そうだ、『かぞえ呼吸』だ」と声がしたようだった。

その声に続いて「足は第2の心臓だろう!」とも言っている。 

「足が凍傷になりそうな時は『足の指を動かし続ける』だったろう」などとも言っている。

頭の中で「1、2、3、4」と数えながら足の指を上下に動かそうとしてみた。動き出すのそんなに時間はかからなかったと思う。 頭の中で、「いーち」と言いながら息を吸い込んでみる。少し息が出来た。 「ふー」と吐く。 数を数えながら、次第に深く吸うようにする。足も指だけでなく足首全体を「バイバイ」する時のように上下させて、それに合わせてゆっくりと時間をかけながら吐き出して行く。

「い---ち」 「にーーーい」 息を吸う時に精一杯の力を込めてみる。 

そうこうしている内に、いつの間にか辺りが白んで来るにつれ、自分の中で「ここで死んだら意味が無いだろう」とか言っているようだ。

2009年5月6日水曜日


薄れてゆく意識と暗闇 

そのまましばらくして、いつもと違うもう一つの事に気が付き始めた。

「身体のどこそこ」でなく、自分全体が「ゆっくりと冷え始めているらしい」という事だ。

薄れてゆく意識と暗闇の中で、それは次第に「このまま死んで行くのではないか。」と言う確信のようなものに変わり、呼吸自体が、有るか無きかになるにつれそれは「確信」=「諦観」と成りつつあった。               
「沈む」のでなく、自分自身が湖の暗く冷たい湖水に変わって行くようなのだ。

 「苦しみ」は全くなく、「人は、こうして死んで行くんだ。」と、そこへ自分がゆっくりと自然な感じで下ってゆくとさえ感じられた。

 長い闘病のしんどさもあってか、そのまま意識を失ってゆくのも「至極楽かな。」とさえも思った。

2009年4月26日日曜日


 「自分」が消えてゆくよう
 生活のなかで鼻炎を忘れ始めていた、確か4月の始めごろの事だ。
その日はいつものように午前1時過ぎに就寝した。そして、まだあたりが暗いころだったと思う。
 ふと目が醒めた。そこには、はるか昔に体験した、連日痛飲した後にくるアル中症状のような、「かなしばり」状態の自分がいた。(医師から「酒=死」を宣告され、発症以来、酒は全く飲んでいない。) 
 身体が・手足が、思うようにならないと言うか、「自分の身体各部を意識できない。」のだ。機能しているのは視覚(=自覚)だけで、そこにあるのは目の前の天井と、横たわっている「自分の物でない他の誰かの身体」だけだ。

2009年4月22日水曜日


 いよいよ飲用へ  

  免疫力を付ける為に飲むので、初めは小スプーンに半分弱ほど採ってそれを湯冷まし1カップほどで薄めて毎朝飲み出した。10~11月ごろだった。

  はっきりとした記憶はないが2週間ほどはかえってくしゃみがひどくなったと思う。そこで止めずに続けて、少し落ち着きがでて来たので、量をスプーン半分強にしてさらに続けた。

  翌年は2月ごろに1回だけベコナーゼを両鼻に噴霧したきりで症状は、ほとんどでなくなった。症状が治まると杉茶を時々飲むのを忘れたりしたこともあったかと思う。

2009年4月19日日曜日


杉茶ガムシロップ

 その杉をほんのひと掴み(約10センチ×5本)を500ccの耐熱ガラス製コーヒー沸かしにいれ、ペットボトルの自然水を八分目ほど満たし、足し水をしながら沸騰の手前で煮てゆくと、3時間ほどで次第に濃い紅茶色になって来る。そこで火を止める。

 その煮汁を無漂白のコーヒーフィルターで漉す。そのまま飲んでも良いが、味がかなりきついのと長期保存が困難と思われるので、冷めないうちに湯煎しながら三温糖を少しずつ溶かしててゆき、「杉葉ガムシロップ」にしてジャムの瓶に移し冷まして冷蔵保存する。(上に詳しい図解を添付。 )

2009年4月8日水曜日

「杉には杉を」


アレルギー性鼻炎対策で「杉葉」を煎じる。 

30代半ばにかかるころから春先に「アレルギー性鼻炎」と思われるクシャミがひどくなって来た。

ベコナーゼ、インタール等の点鼻薬も効果があったが、治療法の中で「注射療法」なるものを受けた。医師の説明によると注射液は「杉の成分」に該当するもので、週に1回体内に入れてゆくうちに、杉に対する免疫が出来てきて鼻炎の症状が軽くなるとの事だった。実際に効果があったようで、少し眠くなりはしたものの、くしゃみや涙で苦しむことが減ってきた。保険が使えたが結構費用が気になった。

 一方、首都圏の林業家に何人か知り合いがいて、杉ならいくらでも手に入るのでこれを何とか活用してみようと考えた。それまで「喉のかすれ」対策のうがい薬として「甘草」を何度も煎じて飲用して効果を得ていたので、試しにその要領で杉葉を煎じたらどうかと、その年の晩秋から挑戦してみた。 杉葉は自動車が滅多に通らない群馬県の山奥から秋に手に入れた。

2009年3月30日月曜日


 「だめか」と思いながら

ふと「高山病」の言葉が頭に思い浮かび、続いて山岳雑誌の医学記事に「そんな時は自分に言い聞かせ、『1、2。1、2。』と意識的に声を掛けるようにして息をしろ」と書いてあったことを思い出した。 「1、2。1、2。1、2。」心でつぶやきながら力を振り絞って「すーっ」と息を吸い、「はーーっ」と吐き出す。気力で繰り返す。 ゆっくり、ゆっくり、一歩、また一歩と、なぜか下へ戻らずに頂上へと進んだ。この間、時間にして20分弱だったような気がする。 360度全眺望の頂上に着き、歩を止めたら呼吸が戻って来た。       (この時の呼吸法を「数え呼吸法」と呼ぶことにしておく。)

2009年3月25日水曜日


高山病と「数え呼吸法」に助けられる 

 体力維持と気晴らしを兼ねて近郊の山にもよくハイキングに出掛けた。その中の一つの体験が再度、再々度自分の命を救う事になるとは思いもよらなかった。

  初夏の土曜日の夜に仕事を終え、そのまま車を約5時間ほど飛ばして尾瀬の鳩待峠へ。そこから日の出とともに標高約2000mの至仏山を目指して単独で登り出した。天気は快晴。歩き出して1時間ほどしてから少し呼吸が苦しくなって来た。 歩みを緩めつつ,それでも山頂を目指した。

頂上へ、視界を遮るものが何も無くなり、地図では残り30分を切っている。頂上を目前に見ながら突然自力で呼吸が出来なくなってきた。苦しくて息が止まりそうだ。途中誰にも会わず辺りにも人の気配は無かった。「万事窮す!」であった。

2009年3月20日金曜日


「長くてあと20年かな?」 

別の病院の医師からは,「統計的には、長くて20ほど年の命」とも「助言」を受けたりしながら、頭痛、悪寒、倦怠感、吐き気、全身のかゆみ、そして時折り起こる「自暴自棄感」などと付き合いつつ10数年が経った。

この間に摂取したクロレラ粒やアロエは症状を幾分緩和する効果が感じられた。 クロレラは、口に含んで香ばしいものが良いようだった。安価な物を試したことがあったが、独特の芳香もなく1週間もしないうちに背中にじんましんが出てきたので文句を言ってすぐ止めた。無農薬ニンジンジュースも元気をくれ、夏場の低血圧時には大いに助かった。

2009年3月15日日曜日


検査値が降下しだした 

 全身のひどい痒みにも苦しめられた。

 特に風呂上がり時、皮膚が乾燥し出すとき猛烈なかゆみが全身を襲ってくるのだ。 

他に術なく、対抗療法で、たわしで全身を洗った。初めは皮膚表面がみみず腫れ状態になったが1~2週するうちに慣れてきて、たわし洗い後は痒みが軽くなった。 

  医師の指示もあり2、3日毎に血液検査をしていたが、次第に黄疸が軽くなるとともにGOT,GPTの値がゆっくりと下がり出し、ほぼ平常値に近づいた。肝臓病が専門というその医師は、ぽつりと「うーん、こういうこともあるのか」とつぶやいた。

三 途 の 川 の 中 程 から

  「わーっ! うーっ!」 天井に向かって大声で叫ぶ自分の声で目が覚めた。
 すでに夜は明け切っていて、しばらくそのまま布団に強烈な重力で縛り付けられたようで、動けない。
しかしその一方、眼前に薄明を感じ取り、「生きて戻って来たんだ。」と実感して居る自分がいた。 

 何が幸いしたのかは分からなかった。「アサリちゃん」のおかげだったのかなとも思う。
 体力の維持も効いたのかもしれない。とにかく一旦は渡りかけていた三途の川の中程から引き返してきたのは間違いなかった。

 「重武装した地獄の使者」はその日を最後に、
少なくとも目の前からはゆっくりと遠ざかっていったようだった。

地 獄 の 闇 

ところが嘘か真か、数日後「地獄の仕掛け人」がやって来た。 

 仕事から帰ったが、指を動かすのもしんどく全身泥のような脱力感・疲労感のまま寝床に倒れ込む。

何時間かたったころ、猛烈な頭痛が襲って来た。自分の頭は厚手の鋼板のようで、誰かがそれをハンマーで連打している。

 身体ごとブンブンと振り回され、意識を失うように眠り込むかとおもうと、一方で目は開いているはずなのに真っ暗闇の中で何か自分がわめき散らしている。その闇といえば、重密度の「ブラックホール」(?)、極上の石炭の断面のようだった。あれほどの闇を感じたことは以来2度と無かった。

  今から思い出しても、夢に見るこれ以外の闇は、どれも月明かりに照らされているがごとく明るい闇ばかりだった。 もう自分の肉体は感じ取れず、ただかすかな意識のみが、行くことも退くことも出来ないまま、自分が、意識が、どんどんその体積を縮めて行くに任せるしかないのだ。闇の奥へ奥へと吸い込まれていった。医師の警告はこの事だったようだ。

アサリ、シジミは友達 

まず、参考書が勧めるシジミ汁を飲むと、その場で右脇腹の肝臓周辺からつーんと張ったような疼痛感が薄らぐのがすぐに分かった。 新たに通院し始めた別の病院の医師にそのことを話したら、「肝臓は沈黙の臓器で感覚や神経はないからそれはおかしい。」と首をかしげた。 

魚屋で毎日シジミを求めたがなかなか手に入らず、おまけにシジミはその産地の汚染によるのか、時々「灯油臭」や「薬品、農薬臭」がするものがあって、はまぐり、ほたて、赤貝など色々の試行錯誤を経て、肝臓周辺に同様な安息感を与えてくれるアサリに代えた。 

1度に5人分程を買い求めて、砂を抜きそのまま薄塩で煮て、殻を取ってからタッパウエア10個に小分けにして冷凍。毎朝1パックずつ具を加えて、みそ汁にして飲んだ。

おかげで「あっさり死んじめぇー」(^^;) とは行かずに済みそうになってきた。 

良質のタンパク質を採ろうとヨーグルト、チーズも毎日摂取しつつ果物と野菜を食べ、さらに肥満に気をつける為と、体力気力維持のため、医師の「静かに暮らせ」という指示に逆らって毎朝ジョギングもした。そのほうが肝臓周辺が軽くなるうえ、気力が満ちてくるのが分かったからだ。
「私のB型肝炎闘病・脱出記」
初めに、必ずお読みください
 
以下に書いてある事は全く私個人の体験でありこれが他人にそのままあてはまる事とは思えません。本文はあくまでの参考例を提供させて頂いたものであり、本例を参考になさるかどうかは各個人の責任でなさってください。 また各個人が本例を参考あるいは採用されてのいかなる結果についても、私は一切の責任を負わない事をここに明記します。 この事を了解された上で以下の「私のB型肝炎闘病記、脱出記」をお読みください。

明日までに入院しろ
 34歳(?)の、酒を飲み続けていた春過ぎごろだったと思う。全身の脱力感と発疹に襲われ国立病院に駆け込んだ。2週間程をかけての検査の結果、黄疸がでていて、医師から「HB-s抗原+、HB-e抗原-、抗体+でその値からすると、貴方は『急性B型肝炎』だから明日までに入院しろ」と言い渡された。 
 そうは言われても、一人暮らしで仕事も休む訳にはゆかず医師に「通院しながら治したい」と言ったところ「指示に従わないなら、命を保証できない、死んでも責任をとれないぞ」と厳しい調子で脅かされてしまった。 
  後に分かることだが、この時自分にはその言葉の本当の重大な意味が分かっていなかった。ただ、「何とかしよう、何とかなる。」そう思った。 兎にも角にも思いつく策も無く、図書館に行き肝炎関連の本で説得力ありそうなのを片っ端からあたり、そのうちの5、6冊を購入し、むさぼり読んだ。 まだ元気があったので、「死んでたまるか!」「ふざけるな!」と腹の底でそう叫びながら必死に対策をたてた。